問ぎ徹じこや置半えこ右家丈島山岩正作立童沢之かのじし島いします。島に上陸してから5年後のことでした。これが,南大東小中学校の始まりだといわれています。その後,1908年7月1日に,八●↑ ●↑ ■イ 1919(大正8)年の卒そつ業ぎょう写真 ■ア 南大東小学校に建てられた「沖山岩作先生之像」江え戸ど時代に読み・書き・そろばんを教えた所。てつぞうどうしょうたいじょうせいとうけいえいめいてらさわみんいけもんたまおきはんはちじょうじまもんじまねがさくおきやまいわりつじん192数は78人で,池するという全国でもめずらしい学校となりました。だいちさんたちは,村の開たくについて調べていくうちに,島が開たくされているとき,子どもたちの勉強はどうしていたのか疑そこで,校長先生に話をきいてみることにしました。38)年,玉式のじゅくを開くようお願に,寺の民6)年には,高等学校も置かれ,私に思いました。衛門から沖は医者の小が校長および教員としてまねかれ,玉置小学校が開校しました。当時の児が学校として使われました。1917(大南大東尋高等小学校となりました。この小学校は,玉置商会から東洋常,さらに大日本製糖とおよそ50年にもおよび,製糖会社製糖が経営寺子屋校長先生の話1905(明治三子屋島の開たくと学校教育22島の開たくと学校教育
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